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日本の賃金は、なぜ4半世紀も上がっていないのか

2022年8月31日更新

中小企業の人材確保を実現する“アフターコロナ”の人事・賃金制度

日本の賃金は、なぜ4半世紀も上がっていないのか

[神田靖美氏(賃金コンサルタント)]

どれだけ上がっていないか

賃金を上げることが日本経済の最重要課題になっています。7月に行なわれた参議院議員選挙でも、各党はこぞって公約に賃金引上げを盛り込みました。自民党は「25年ぶりの本格的な賃金増時代を創る」と宣言しています。
たしかに、今から25年前である1997年以降、賃金はほとんど上がっていません(図1)。この結果、日本の2021年の平均賃金は、OECD加盟国でデータがある34か国中24位で、平均の77%にとどまっています。


図1:賃金指数の推移
(所定内給与、事業所規模5人以上、一般労働者)

(厚生労働省『毎月勤労統計調査』より筆者作成)

「経営者強欲説」は誤り

実際のところ、政府に賃金を上げる力があるのかどうかは不明です。世の中には、企業は賃金を上げるだけの余裕を持っているけれども、株主や経営者の報酬を多くするために賃上げをしないのだという、「経営者強欲説」ともいうべき見方があります。しかし、これは誤解です。
賃金の源泉は付加価値です。付加価値とは、企業活動によって新たに生み出された価値のことです。実務的には、売上高から、社外から調達したもの、たとえば原材料費、外注費、光熱費などの価格を差し引いて算出します。
付加価値に占める人件費(役員・従業員給与・賞与、法定・法定外福利厚生費、退職金)の割合を労働分配率といいます。経営者が強欲であるならば労働分配率は下がるはずですが、日本の場合は、2000年(50.5%)も、2019年(50.1%)も、ほとんど変わっていません。同じ期間に、アメリカでは、56.4%から52.8%へと下がっています。
日本の中小企業では、労働分配率は2019年度で77.1%です。稼いだ分のほとんどを人件費として流出させている状態です。
筆者は賃金制度作りのコンサルティングをしていますが、ご依頼のほとんどは、「賃金を上げてゆく土台を作りたい」というものです。賃金を下げたいという依頼もまれにありますが、それは雇用を維持するための賃金引下げです。
「効率性賃金」といって、賃金は低いより高いほうが、企業が儲かることが明らかになっています。業績好調な経営者の講演などを聞いても、口をそろえて「賃金は高いほうがよい」と言っています。
高い賃金は、①その賃金を失うことを恐れて、社員がさぼらない、②社員が「もらって当たり前」と思わずに、恩返ししようとする、③離職率を下げる、④採用に多くの人が応募してくる、などの理由で企業の業績を向上させます。
このようなことを経営者は現場で実感しているので、賃金を上げられるものなら上げたいと常に考えています。それができなくて困っているのです。

下げられないから上げられない

それなのに、なぜ賃金が上がらないのか。まず、下げられないから上げられません。
一度決めた賃金を下げると、やる気はそれ以上に下がってしまうので、企業にとってかえって効率が悪くなってしまいます。
人間には「損失回避」という性質があり、得をすることよりも損をしないことのほうを重視します。平均して、損をした悲しみは得をした喜びの2倍の心理的インパクトがあると言われています(もっとも、得をした場合、すぐにそのお金を散財してしまう傾向もあります)。
賃金をいったん2万円万上げて、後から景気が悪くなって1万円下げたとしても、差し引き1万円上がっています。しかし、損失回避の理論通りだとすると、やる気はもともとの状態と変わらないことになります。
これでは、経営者が賃上げに対して臆病になるのも頷けます。

なぜ労働生産性が低いのか

2番目の理由は、労働生産性が上がらないことです。
労働生産性とは、先述の付加価値額の、従業員一人当たりの金額のことです。これが高い企業ほど、高い賃金を支払うことができます。
しかし、労働生産性は25年前と比べてほとんど上がっていません(図2)。日本の労働生産性は、OECD加盟国中22位で、OECD平均の78%にとどまります。
日本の労働生産性が低い原因としては、①平均して企業規模が小さいこと、②IT化が遅れていること、③国内取引中心で貿易が不活発であること、などが指摘されています。


図2:時間当たり名目労働生産性の推移

(日本生産性本部『日本の労働生産性の動向2021』をもとに筆者作成)

賃金を上げなくても、労働者は転職しない

賃金が上がらない3番目の理由は、労働者が転職したがらないことです。賃金を上げなくても転職しないとしたら、賃金は上がりません。
しばしば終身雇用は崩壊したと言われますが、それは誤解です。
図3は、転職入職率(転職入職者数÷1月1日現在の常用労働者数)を示したものです。終身雇用が崩壊したのであればこの値は上がるはずですが、最近14年間で上がっている傾向はみられません。


図3:転職入職率の推移

(厚生労働省『雇用動向調査』をもとに筆者作成)

パーソル総合研究所と中原淳・立教大学教授が2019年から2020年にかけて行なった『転職行動に関する意識・実態調査』によると、転職経験者の79.8%が、前職に不満を持って退職しています。転職は不満を解消すための手段であって、所得を増やすための手段にはなっていません(ただし、実際には、不満は転職後にむしろ多くなる傾向があります)。
もちろん、賃金が低いことが不満であるケースも含まれているはずですが、日本では転職が所得増につながりにくい社会的な背景があり、キャリアアップの手段として転職を考えている労働者は少数であると推測できます。
やはりパーソル総合研究所と中原淳教授の調査によると、35歳超の人が中途採用される確率は、年齢が5歳上がるごとに、出身大学の偏差値が10低下するのと同じマイナス効果があります。あるいは、転職が4回目の求職者は、3回目の求職者に比べて、やはり出身大学の偏差値が10低下するのと同じマイナス効果があります。
偏差値が、平均を表わす50から20下がったとしたら30です。偏差値30というのは、母集団の下位2.3%に入るレベルです。45歳以上あるいは5回目以上の転職は、ほぼ絶望であるということになります。転職して賃金を上げることは、ラクダが針の穴を通るより難しいと言っても過言ではありません。
事実、ボストンコンサルティンググループとリクルートワークス研究所が行なった『求職 トレンド調査』によると、日本で転職を境に所得が増えた人は23%にとどまり、調査対象である13か国のなかで最低です。13か国合計の平均値である57%の半分以下にとどまります。

教育訓練費は10年で35%減った

賃金が上がらない理由の4番目は、企業の教育訓練が減っていることです。
年功賃金が日本独特のものであるというのは誤解です。年齢とともに賃金が増える傾向にあるのは先進国で共通しています。フランスやイタリアでは、日本以上に賃金と年齢の関係が強固です。
「年功賃金の経済的合理性」ということは、おそらく労働経済学のどの教科書にも書かれていることです。
その説明として「人的資本説」というものがあります。人的資本とは、お金を生み出すもとになるもの、つまり資本のうち、人間の体に蓄積されているもののことをいいます。完全に同じではありませんが、ほぼ知識や技能、能力のことです。
企業は労働者に教育訓練をする → 高齢の労働者ほど多くの教育訓練を受けているので人的資本が貯まる → 人的資本が貯まるから賃金も上がるという理論です。
図4は、教育訓練費の動きをみたものです。最近期である2021年はコロナ禍の影響も受けているはずですから例外としても、コロナ前である2016年ですら、10年前に比べて35%も減っています。「人的資本説」が想定する状況が崩れてきています。


図4:従業員への、月当たり教育訓練費の推移

(厚生労働省『就労条件総合調査』をもとに筆者作成)

「本格的な賃金増時代」はいつ来るのか

以上でみてきたことを振り返ると、賃金が上がらない理由はいずれも構造的で、たとえば法律で制限すれば解消するようなものではありません。
下げられないから上げられないというのは、人員整理という選択肢を持てば解決できます。しかし、日本で解雇が行なわれないのは、法で規制されていることが理由ではなく、経営者の自主規制によって起こっています。自主規制は容易に変わるものではありませんし、解雇しないという自主規制は変えるべきものでもありません。
労働生産性が低いことは、企業規模が小さいことやIT化が遅れていること、貿易が不活発であることによります。これらは企業側も認識しており、それでも変えられないことです。
労働者が転職したがらない理由は、結局は企業側の「年長者嫌い」「多転職者嫌い」によりますが、これらは文化的な問題であり、いったん定着した文化はなかなか払しょくできません。
教育訓練は、企業側は、別に自ら望んでしていないわけではありません。やりたくても、予算も時間もないからやっていないだけです。
このように考えると、自民党が掲げる「本格的な賃金増時代」は、25年ぶりではなく、もう少し間をおいてから来そうです。
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執筆者プロフィール

神田靖美氏(賃金コンサルタント)
人事制度のコンサルティング会社・リザルト株式会社代表取締役。(株)ナショナル証券経済研究所、(株)賃金管理研究所を経て、2010年リザルト株式会社設立。主に中小企業向けに、賃金・評価制度の導入をサポートしている。日本実業出版社『企業実務』に賞与相場、賃上げ相場の予測記事を20年にわたり執筆中。著書に『成果主義賃金を正しく導入する本』(2003年、あさ出版)など。日本賃金学会会員。上智大学経済学部卒業、早稲田大学大学院商学研究科MBAコース修了。
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